第六章


 清子が、泣いていた。

 仄暗い闇の中、白く細い二本の手が浮き上がる。
 「狼........」
 ここは寂しすぎる......早く迎えに来て.......清子はまるでそう囁いているように見えた。


 背後から、八重子の声が聞こえる。
 「兄ちゃん、苦しいよ......助けて......」
 幼く小さい指が宙をさまよう。


 狼はどちらにも行けず、立ち尽くしていた。
 「どうすればいいんだ......俺は......」

 頭を抱え込み、ぎゅっと目を閉じる。

 どこへ行けばいいのか.......このまま.......。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆




 じっとりと脂汗に濡れた不快感を感じながら、狼はカッと目を見開いた。

 「お目覚めですか」
 寝かされていたベッドの傍に座っていた男が、静かに声をかける。
 狼の秘書になると名乗った、池上という男だった。

 「おま....え......!」
 起き上がって自分に向かってこようとする狼を、池上は制した。
 「まだ傷が痛むはずです。突然身体を動かしてはいけません」

 強い力で肩を押さえつけられ、狼は苦痛に呻いた。
 「ここは....どこだ? いきなり殴りつけやがって......」

 「山脇邸の、あなたのために用意されたお部屋です。強引な手段を取ったことは......深くお詫びします。ですが、どんな処罰を受けても、あなたをここにお迎えしたことは後悔しておりません」
 淡々と、しかしきっぱりと言い切る池上に、狼は不思議と反発を覚えなかった。
 どんな方法を使ってでも自分の任務を忠実にこなす男なのだろう。
 だが、今はそんなことに感心している場合ではなかった。

 「診察では、極度の過労と栄養失調とのことです。よくお眠りになっていました....。あれから丸一日経っているのですよ」
 「何......!?」

 八重子の見舞いと仕事.....そのどちらも穴を開けるわけにはいかない。
 反射的にベッドを降りようとする狼の腕を、またも池上はしっかりと掴んだ。

 「ご心配には及びません。八重子さんは山脇家の所有する病院に移しました。仕事の方も、当然のことながら、断りの使者を出しておきましたから......」
 「......!」

 正攻法では無いにせよ、たった一日で自分を山脇家に引き入れ、八重子を人質同然に入院させる.....。
 この男の手腕に、狼は圧倒されていた。


 ふと廊下の方が騒がしくなった。
 多勢の足音が聞こえ、その中に中年の男の声が混じる。
 
 「そうか、池上がついに狼を連れてきたのか.....!でかしたぞ!」
 召使たちにかしずかれ、豪胆な笑い声を響かせるその男は、どんなに憎んでも飽き足らない山脇伯爵その人であった。

 ノックもせずに、山脇は部屋に入ってきた。

 突然の急襲に狼は一瞬身構えたが、すぐに険しい表情になり、山脇を睨み付けた。
 山脇はそんな狼の様子を意にも介さず、話し始めた。

 「よく来たな、狼。私を覚えているか?」
 「......あんたは相当面の皮の厚い男らしいな。自分が俺たち母子にしたことをすっかり忘れてしまったと見える」
 狼は好戦的な言葉を吐いた。 

 山脇は、瞬間微笑を浮かべた。
 その態度は狼の中の導火線に火をつけた。

 「散々いたぶって捨てたものを、今になって自分の都合で拾い上げようというのか。あんたの傲慢さには反吐が出る....!」

 「......言いたいことはそれだけか?狼」
 「何だと!?」

 山脇は何の動揺も見せずに、ゆっくりと椅子に腰掛けた。

 「言い訳などしないよ。私がかつておまえたちを見放したことは事実だ。だが、あれは私にとって....この山脇家の繁栄のためには仕方の無いことだった」
 「......捨てるだけならまだしも、お袋に対する仕打ちは一体何なんだ!人間のやることじゃない」

 痛みを忘れるほどの激しい怒りに、狼はベッドから上体を起こし、山脇に対峙した。

 「弓香のことか? ......おまえはまだ幼くてわからなかったかもしれんが、あれはかなりの淫売でな。私が囲っていた間にも何人もの男と関係を持っていた。
 最後の.....あの雪の日か.....。あのときおまえたちの部屋にやってきた男どもは弓香の愛人たちで、私が金を渡して寝返らせたというだけのことだ」

 「......!!」

 「弓香の苦痛に歪んだ顔は、おおかたかつての愛人たちに犯されて恍惚としていた表情の間違いじゃないのか? まあ、おまえは認めたくないだろうが」

 狼は衝撃に打ちのめされた。
 もう10年以上も前の忌まわしい映像が頭の中を駆け巡る。
 
 「まあ、そうは言ってもおまえが私を憎む気持ちはそう簡単には変えられんだろう。それはそれで構わん。
 ......これは取り引きだよ、狼。おまえは腹違いの妹の治療費を得る、私は唯一血を分けた後継ぎを得る......それでいいじゃないか」

 「........」

 無言になった狼に構わず、山脇は続けた。
 「おまえの体調がよくなり次第、水野公爵との会見の場を設ける。令嬢の有紀子さんは美しい人だと評判だぞ」

 「ふざけるな。俺にはもう夫婦の契りを交わした女がいる。あんたが勝手に決めた婚約など誰が承知するか」
 
 「......ふん、本橋の娘か....。よりによっておまえも縁の薄い女を選んだものだ.....」
 山脇が忌々しげに呟くのを狼は聞き逃さなかった。

 「あんた、清子の素性を知っているのか....!?」

 山脇は当然だという顔で向き直った。
 「そんなことは、ここにいる池上がとっくに調査済みだ。もっとも本人は否定したそうだがな.....。
 とにかくその女だけは許さん。いや、どんな女であろうとおまえと有紀子さんの結婚式の前には後始末をつけなければ....」

 「そんな婚約は無効だと何度も言ってるだろう!」
 狼は痛みをこらえながら、山脇の勝手な物言いに反駁した。

 「これは取り引きのカードに含まれている。こちらの出す条件が呑めないのなら、おまえの妹が放り出されるだけのことだ」
 今まで鷹揚とした口調を続けてきた山脇が、本性を顕わにし、冷たく言い放つ。

 人質のように山脇家の所有する大病院に入院させられた八重子......。
 最愛の女を救い出すこともままならない現実.....。
 全く手出しのできない状況に、狼の身体は焦りと怒りにうちふるえた。


 ......そんな狼の様子を池上はつぶさに観察し、次なる手だてを講じようとしていた......。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆




 一方清子は、またも父から、苦しい縁談を強いられようとしていた。
 
 突然屋敷に戻った清子を、父は黙って受け入れた。
 しかし父は、傷心を抱いた清子の姿を知りながら、強引に見合い話をすすめようとする。

 相変わらず調子の悪い身体の痛みに耐えつつ、どうしても拒めない見合いにだけは出席した。

 ただそれ以外のときは、自分が抜け殻のようになって日々が移り変わっていくのを、わかっていながらどうすることもできずにいた........。

 夜、ひとりきりの広いベッドに身を横たえた清子は、心と身体の空白に悶えた。

 狼に会いたい........。本当はもう、狼がいなければ何もできない.......。

 自分はこんなにも弱い女だったのか......。
 母の死後、いつも自分の傍にあったオルゴール------トロイメライのフレーズを口ずさみながら、ようやく清子は浅い眠りにつくのだった......。




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