第五章


 翌朝から、狼は仕事の前に八重子を見舞い、深夜まで帰って来ないという生活を続けた。
 働いて働いて、自分の身体を痛めつけ、何もかもを忘れたがっているかのように。
 
 自分の力で......何とか自分だけの力で八重子の病気を治してやりたい....。
 狼が必死にもがくその様を、清子はただ黙ってみつめることしかできなかった。

 そして数日後、容赦の無い現実が狼を襲う....。
 八重子が大量の血を吐いてしまったのだった。
 一刻の猶予もならないと医師が宣告する....。
 大病院で集中的な治療を受けること.....それ以外に八重子が助かる見込みは無い、と。

 完全に道は一筋だけになった。
 それは狼が最も忌み憎むべき相手.....実の父親である山脇の要求を呑むことだけだった.......。

 この数日、頻繁に山脇家の遣いの者が長屋を訪れていた。
 清子は普段席を外しているが、苛立った狼が使者を追い返し、その度に「また参ります」といって男が車に戻っていくのが常だった。

 
 狼が八重子の様子を見に医師の青江宅を訪れた朝、清子はそっと後をついて行った。
 狼は何も言わないが、八重子の病状が悪化しているであろうことは、自然と窺い知れる。
 
 診察室の奥で寝む八重子の傍で、狼は肩を震わせていた。

 「....こんなになるまで何もしてやれなくて、すまなかったな、八重子.....。だが、俺はまったく.....どうしようもない奴だ......。こんなに苦しんでるおまえを目の前にして、まだ迷っている。本当にこの身を売るべきなのか.....」

 清子は目の前の光景に胸が痛くなった。
 八重子はやはり相当に悪いのだ......。
 そして狼は究極の選択を迫られ、迷い苦しんでいる......。
 目の前の莫大な治療費を得るか、積年の憎しみを心の中に封じ込めるか。

 きっと狼は自分の心を殺してでも、八重子を助けるために山脇家へ行く道を選ぶだろう......。
 自分が山脇家と敵対する貴族の娘である以上、狼について行くことはできない......。
 いつかくる日だとわかってはいたものの、あまりの悲しみに、清子は呼吸すらできないような気がした。


 ふらふらと長屋に戻った清子は、山脇家の使者らしき人物が立っているのに気付いた。
 いつもとは違う若い男のようだ。

 「....狼でしたら、まだ戻ってきませんけど......」
 「いいえ、今日は貴女にお話があって参ったのです」
 「私に......?」
 清子はその鋭い目をした長身の男を不安げに見た。

 「失礼ですが.....貴女は本橋伯爵家のご令嬢によく似ていらっしゃる......まさかご本人では....?」
 「......!」
 清子の心臓が、早鐘を打つ。
 山脇家の使用人が自分の素性を知っている.....?
 このことを山脇伯爵に知られたら、今後どんな事態に発展してしまうのか......。
 狼や八重子に、決して迷惑だけはかけたくなかった。

 「......いえ、人違いです」
 それだけ言うのがやっとだった。
 俯き、目を伏せる清子に対して、その使者は信じられないような言葉を発した。

 「それは、申し訳なかった。だがいずれにせよ、狼様には伯爵がお決めになった婚約者がおいでになります。貴女の出る幕はないのですから、今のうちにこの家から立ち去った方が賢明ですよ」

 「......婚約者?」
 清子は愕然とした。
 狼を後継ぎとして迎え入れるなら、当然貴族としての政略結婚も考えられる。
 現に清子自身も、父に無理やり見知らぬ男と婚約させられそうになっていたことを、ようやく思い出した。

 「そうです。狼様には何度も申し上げていますが、貴女と離れる気はない、の一点張りで....。私どももほとほと困っているのです」
 「........」

 「八重子さんの病気が予断を許さないことは狼様もわかっておいでなのに......。貴女の存在が狼様の決心を鈍らせているのですよ」
 「..........!」
 そんなことはこの男に言われるまでもなく清子自身がいちばんよくわかっている。
 八重子の治療費を盾に取る山脇家の卑怯なやり方には怒りを覚えながらも、結局狼のために何の役にも立てない我が身を呪うしかなかった。

 帰り道からずっとこらえてきた涙が、気付かないうちに頬を伝う。
 自分さえいなくなれば、狼は八重子のことだけを考えていられるのだ......。

 清子は涙をぬぐい、まっすぐに男の目を見据えた。

 「今すぐ、ここを出てゆきます」




 ◆◆◆◆◆◆◆◆




 深夜までの仕事を終えて長屋に戻った狼は、部屋の気配がいつもと違うことに気がついた。
 「清子? 清子、どこだ?」

 蝋燭の光で居間を照らすと、ちゃぶ台の上には清子のオルゴールがぽつんと残されていた。
 「........!」
 手紙ひとつさえ無く、清子の姿だけが消えていた。

 「畜生、山脇の使いが清子に何を吹き込んだんだ......!!」
 矢も楯もたまらずに、狼は真っ暗な道を駆け出した。


 どれほどの時間を走り続けたのか、ようやく狼は清子の実家である屋敷に辿り着いた。
 重く閉ざされた門に向かって、何度も呼び鈴を鳴らし続ける。
 しばらくして、清子の側近であるじいやが門の傍に近づいてきた。

 「おい、清子はここにいるんだろう。早く出してくれ。俺はあいつに話さなきゃいけないことがあるんだ!」

 「清子様はあなたにお会いしたくないとおっしゃっています。どうぞお引取り下さい」
 叫ぶ狼の声を聞きながら、じいやはゆっくりと答えた。

 「何を言ってるんだ。清子が俺から離れられるわけは無い。突然家を出た理由もわかってるんだ。あいつは、俺や八重子のことを考えて身を引こうなんてばかなこと......」

 「......そこまでおわかりになっているのでしたらなおのこと、お嬢様とはお会いしない方がよいでしょう」
 温和な風貌からは想像できないような鋭い声で、じいやは言い放った。

 「あなたは、山脇伯爵と当家の主人との確執を何もご存じないようだ。あなたが、お嬢様を連れて山脇家へお入りになることは到底不可能なことなのですよ」
 「......確執だと?」

 狼ははじめて聞くその事実に、胸騒ぎを覚えた。
 全く知る由の無い暗闇がふたりを引き裂こうというのか......。

 「いずれ、おわかりになるでしょう......とにかく今夜はお帰り下さい。妹さんのお見舞いもしなくてはならないのでしょう?」
 狼はハッとした。
 もうあと数時間もすれば夜が明ける。
 診察室へ行き、その後早朝から仕事に向かわなくてはならない。
 どんなに清子のことだけ考えてやりたくても叶わない、苦い現実だった。

 「......じいさん、あいつにこれだけは伝えてくれ。たとえどんな状況になろうとも、俺は清子を離しはしないと......また来る.......」
 「......承知しました」

 屋敷の中に戻っていくじいやの後姿が視界から消え去った後も、狼は苦しげな顔で門柱を握りしめた。

 「バカなやつだよ......おまえも、俺も......」

 呟き、疲れきった身体を引き摺りながら、狼は闇夜の中を歩き始めた。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆




 「お嬢様、本当に追い返してしまって宜しかったのでしょうか......? 私ははじめこそは反対しておりましたが、あれほどまでにお嬢様のことを......」
 沈痛な表情でじいやが尋ねる。

 「いいのよ。ありがとう......」
 清子は言葉すくなに、窓辺を見やった。

 「狼は私に眩しい夢を見させてくれたの.......。何も返すことのできない私にはこうするしか.......」
 
 ......こらえていた嗚咽が洩れる。
 清子の哀しいその姿を、じいやは痛ましく見つめることしかできなかった。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆>




 夜が明け八重子を見舞いに言った狼は、そのまま仕事に向かおうとしたが、食事もろくに摂っていない身体はさすがに言うことをきかなくなっていた。
 「う........」
 人力車を掴んだ指先に力が入らない。


 「だいぶお疲れのご様子ですね」
 背後から低い声の男の影が迫ってくる。
 「何だ、おまえは?」
 訝しげに自分を睨みつける狼に、男は穏やかな声で言った。

 「私は山脇伯爵の第二秘書をしている池上と申します。今までの使いのものでは埒があかないので私がやって参りました。あなた様が山脇家にお入りになった暁には、私が第一秘書としてお仕えすることになっております」

 「......! まさかおまえが清子に余計なことを」
 
 「いけませんでしたか? あなたが迷ってらっしゃるようですから、秘書として最善を尽くしたまでのことです。」
 「貴様........」

 「失礼致します」
 その機先を制するかのように、池上は狼の腹部を強烈に殴りつけた。

 「あ、くぅ.........」
 疲労で弱りきった狼は、起き上がることができなかった。

 「手荒な真似をして申し訳ありません。ですが、何もかもを忘れて山脇家に入ることがあなたのためなのです」
 声も出せない狼の身体を担ぎ上げて、池上は黒塗りの車に乗り込んだ。

 清子..........!
 心の中で叫び声をあげながら、非情にも車は走り去っていった。




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