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いくつかのバスと電車を乗り継ぎ、鳩羽はその駅に降り立った。
宝条学院という超名門校の生徒たちを掌握する絹、穐、朱実、そして綾。
その彼らが生まれ育ち、少年少女時代を過ごした場所......。
まさに英家を中心に、彼らの権力はこの近隣に隅々まで行き届いているのだろう。
学院の制服を着た鳩羽が、朱実にもらった地図を見つつ通りがかりの者に道を尋ねると、緊張したように丁寧に教えてくれる。
若狭家への客人に失礼のないようにしなくてはと、でもいうように。
ここが綾の故郷なのだと感傷にひたる間もなく、鳩羽は腕に抱えたフリージアの花束を握りしめ、歩き出した。
----綾の家に到着した鳩羽は、お手伝いの女性に取次ぎを頼んだ。
自分の名前を告げたところで綾が受け入れてくれないのは承知の上だったので、他のクラスメイトの名前を名乗った。
どうしても引き返すことなどできなかったから.....。
おそらくカメラ越しにチェックされているのだろうが、ここでも綾の同級生であることを示す制服姿のおかげで、何の疑いもなく門を通される。
一体表門からどれほどの距離を歩いたかわからないが、玄関先に到着した鳩羽は、先ほどインターフォンで話した女性に迎え入れられた。更に長い廊下を通って、綾の部屋に向かう。
....何から話せばよいのか。
ここに来る道中も様々なことを考えてきた。
だが、綾の顔を見たら何も言えなくなってしまうような気もしていた。
たった数日会わなかっただけでも不安で、そして拒絶されるのがこわかった。
そんな情けない自分を振り払うかのように、鳩羽は背を伸ばした。
女性が、声をかける。
「お嬢様、宝条学院からのお客様をお通ししました」
「はい」
澄んだ声が聞こえる。
そして襖が開いたその時、一瞬にしてその表情が強張るのがわかった。
「どうして......?」
綾の狼狽に気づくことなく、そのお手伝いの女性は、
「ただいまお茶をお持ちしますので」
と、席を外そうとした。
綾は即座に動揺を押し隠し、言った。
「いいえ、私が点ててお出しするので大丈夫よ」
「かしこまりました。では失礼いたします」
お辞儀をして、その場を立ち去る使用人を綾は優しく送り出した。
「.....さすがだな。憎くて飽き足らない男が突然目の前に現れても、人前で冷静にふるまうことは忘れない....か」
「........!」
綾は振り向いて、鳩羽をなじるような目つきで見た。
「鳩羽くん.....何をしに来たの?」
か細く哀しげな声だった。
「もうこれ以上......私を苦しめないで.......」
その言葉に、胸をつかれた鳩羽だが、わざとふざけた調子で言った。
「......おまえのイメージで決めたきた.........なーんてね」
以前茶道部の後輩が綾に花を持ってきたときの様子を真似して、鳩羽はフリージアの花束を差し出した。
「これは......」
綾は戸惑いを隠せなかった。
大輪の薔薇でも、百合でもない、抱えきれないほどの、可愛らしい花々....。
ひかえめに漂う甘い香りに、綾の動悸が少しずつ鎮まっていく。
「....季節外れの.....フリージアね」
ぽつりと綾が呟いた。
「名前、知ってたのか」
「ええ....」
フリージアは綾の好きな花のひとつだった。
決して華やかではないが、可憐に凛々しく、一生懸命に咲いている。
不思議だった。
鳩羽の顔を見た瞬間に感じた衝動、また傷つけられてしまうのではないかという怯えのような感情が少しずつ和らいでいく。
そしてなぜか......ほんの少し胸がしめつけられるような、そんな気がした......。
一方鳩羽は、綾の伏目がちな横顔を見ながら、迷いつつ、しかしはっきりと言い切った。
「ビデオのことなら.....心配しなくていい。元からお前を苦しめるものなんて存在しなかったんだから.....」
「....え........?」
「ふ......意味がわからねーよな。これじゃ」
鳩羽は立ち上がり、障子に手をかけた。
広大な庭から、やわらかな風が吹き抜けてくる。
「.....つまり、そもそもおまえが俺にやられてるところなんて撮影されてないんだよ」
「......そんな..........」
綾にはわからなかった。
だったらなぜ鳩羽は今まで自分を脅かすような行動を取ってきたのか.....。
「理解できないって顔だな。......俺も自分で、何でお前を苦しめようとしたのかなんて、今となってはよくわからねーよ.......」
「いや、それは嘘だな。......俺はどうしようもないほど腹が立ったんだ。想っても甲斐の無い男を思いつめて涙をぽろぽろこぼしてるお前が情けなくて、歯痒くて......」
”---それがまるで報われない恋に足掻く自分を見ているようで---”
その言葉を呑み込みながら、一気に言葉を継いだ鳩羽は、綾の瞳にうっすら涙が浮かんでいるのに気づいた。
「......それも違う......。悪いのはおまえじゃない。俺が....おまえにひどいことをした......」
そう言って、鳩羽は綾の肩に手をかけた。
目を閉じ、項垂れる鳩羽の姿を見て、綾は鳩羽の触れた肩先から徐々に、何か冷たい塊が溶けていくような気がした。
ずっと綾を不安にさせていた何かが、少しずつ氷解していくような......。
「.....俺が、おまえを傷つけてきたことはわかってる......。 勝手だけど....でも俺は.....もうおまえに触れるのを止めることができない。嫌か?」
まっすぐな視線で見据えられ、綾は胸に切ない痛みが走るのを感じた。
「........嫌じゃ......ない......でも.....自分でもわからない、この気持ちが何なのか.......」
「....若狭....」
声を震わせながら小さく自分をかき抱くその姿を見て、鳩羽は綾を抱きしめたい衝動にかられた。
初めて出会ったときから、もう綾以外の女など見えなかった、ずっと愛していたと告げたかった。だが......。
綾は鳩羽の言葉を.....差し出したその手を拒まなかった。
鳩羽の過ちを赦してくれた。
今はそれだけで充分ではないか.....。
「鳩羽くん........」
綾が重たい口を開いた。
「もう、いろいろなことがあって.....混乱して、どうしたらいいかわからないの......。でも、鳩羽くんがこの花を私にくれたのが嬉しかった。......今はそれしか言えない......」
----自分が綾を愛しているのだということは、まだ伝わっていないのかもしれない。いや多分、そうなのだろう.....。
それは無理もないことだった。
自分はまだいくつかの釈明を終えたばかりなのだから。
綾はゆっくりとフリージアの花束をほどき、花器に移し変えていった。
その姿を見つめているうち、花屋の店員が教えてくれた「清らか」という花言葉がふっと頭をよぎる。
ほんのわずかでも、綾の心を手に入れられたのか。
今は確かめる術もない。
クラス委員同士から友達になり、その関係が終わりを告げ、愁いにくれる日々もあった。
そして今、ふたりの間を何と呼べばよいのだろうか。
ただひとつ言えるのは、たとえどんなに渇いたとしても、自分はいつまでも綾を追い求めていくだろうということだった。
これからもずっと綾を見つめていく。
ただそれだけなのだと。
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「......帰ろうぜ、学院に」
「えっ........」
綾は手を休めて、鳩羽の顔を見た。
「あんな窮屈でつまんねーところって、最初は思ってたけど、最近結構あそこも悪くないって思い始めたんだ。......何しろどうしようもなくお節介ないい奴も部屋で待ってるしな」
「....そうね」
綾は微笑んで答えた。
本気の恋、本物の友、そして大きく変わっていく自分........。
この先どうなるのかはわからない。
だが、揺るぎない想いを胸に抱えながら、鳩羽は一歩を踏み出していくのだった。
(渇望・完)
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