第三章



 ふたりは、海辺を散歩していた。
 昨日の嵐の残骸で、流木やガラス瓶などが流れ着いている。
 すっかり晴れ上がった空の光があたたかくふたりを照らし、爽やかな海風が心地よく吹き抜けた。
 鳩羽の大きな手が綾の細い指を固く握りしめる。まるでこの手を離すまいとするように。
 並んで歩く綾は、鳩羽の広い肩の先に触れるたびに、なぜか自分の鼓動が早くなっていくような気がした。
 学院から離れ、静かな凪の中にふたりきり・・・・。それだけで、何かが違う。
 ふたりの間だけに流れる、この愛おしい時間をいつまでも感じていたかった。
 
 
 「綾、もう昼だから食事にしよう」
 「鳩羽くんに任せるわ。この辺り、詳しいんでしょう?」
 この海辺の地は、鳩羽のかつての実家がある場所からそう遠くない、馴染みのあるところだったらしい。
 鳩羽の進学をきっかけに、母親と弟は祖父母のいる神戸に移り住み、今では彼が育った家も無い。
 思い出の骸が残された場所だった。

 「だいぶ変わっちゃったけどな。もう宝条の寮に入って丸二年経つからな・・・・」
 感慨深げに海沿いの道路を眺めていた鳩羽は、
 「行こう、この先にいい店がある」 
 そう言って、綾の腕を取った。

 春休みの昼時のせいか、店内は混雑していた。
 フロントに名前を告げ、案内を待つ。
 どうやら予約を入れていたらしい。
 「綾はこういう店初めてなんじゃないのか?」
 「・・・・ええ、あまり外食したことがないから・・・・」
 綾は遠慮がちに言った。
 綾の実家・若狭家では広大な敷地内に十数人のお手伝いやお抱えの料理人がいる。
 ごくたまに外食するにしても、内輪の祝い事で高級料亭を借りきるくらいだった。
 
 今日来たこの店は、南欧の雰囲気が漂う、品のある造りながらも、明るい気さくな感じのレストランだった。
 ウェイターに案内され、窓際の席に腰を下ろす。
 鳩羽が、食前酒を注文した。
 「私、お酒なんて・・・・」
 「軽いのだから大丈夫だよ。それに酔うとおまえは感じやすくなるからな」
 綾がカッと赤くなる。
 バレンタインデーのとき、店員に勧められたブランデー入りのチョコレートを鳩羽にプレゼントしたのを思い出したのだ。
 そのチョコを使って、淫らに翻弄され、抱かれた記憶が頭をかすめる。
 口移しでブランデーチョコを飲み込まされ、更にいくつかの粒を乳房の狭間や秘部にまで挿入された。
 溶け出したアルコールと愛撫に酔った綾は、身動きすらできなかった・・・・・。

 「もう、知らない・・・・いつもそんなことばかり言って」
 すねて横を向く綾を可愛く思い、ついくすっと笑ってしまう。

 「・・・・じゃあ、つまらない思い出話でもしようか」
 「えっ?」
 鳩羽が自分のことを話すのはめったになかったので、突然の言葉に驚いた。

 「この店ができたのは、俺が中学生のときだったんだ」
 ゆっくりと話し出す。
 「この辺りじゃ格段にステイタスのある店で、親父が死んで以来外食すらしたことがなかった俺には夢のまた夢だった」
 「・・・・・・」
 「だからどうしても本当に好きな女と一緒に来たかったんだ・・・・・・って、くだらない話は終わり」
 鳩羽は何かを思い出したかのように、言葉を切る。
 
 よく考えれば、私は一緒にクラス委員になってからの彼しか知らない・・・・。
 どんな風に育って、どんな人と付き合って、どんなものを見てきたのか。
 綾がそのことについて口を開きかけたとき、食前酒が運ばれてきた。

 「とにかく、乾杯しようぜ」
 「ええ」
 カチンとグラスを軽く突き合わせ、琥珀色の液体に口をつけた。
 甘酸っぱい優しい味が心地よく全身を駆け抜ける。

 オードブルをはじめ、魚を中心とした新鮮な美味しい料理が運ばれてきた。
 委員会でのこと、クラスの中のできごと・・・・楽しく談笑しながら食事は進んでいたが、ふと綾は、少し離れたところから一人の女性がこちらに視線を投げかけているのを感じた。
 20歳くらいだろうか。ややきつそうな顔立ちの美人で、向かい側の席には恋人と思われる男性が同伴していた。
 「鳩羽くん、あの人さっきからこっちを見てるけど、もしかして知り合い?」
 声をひそめて尋ねる。
 「うん?・・・・・・!?」
 振り向いてその女性を見た瞬間、鳩羽は驚きを隠そうとしなかった。
 女性が、こちらに向かって歩いてくる。

 「お邪魔してごめんなさい。優、久しぶりね」
 「由理....」
 自分がまだ呼んだことのない鳩羽の名前を、あっさりと口にしたその女性----由理に、綾は激しく嫉妬した。
 「偶然ね。こっちに戻ってきてたの」
 「ああ。お前もか?」
 ・・・・オマエモカ?・・・・
 鳩羽は普段クラスの女生徒とは、特に会話らしい会話はしない。
 そんな鳩羽が、まるで親しい間柄のようにこの年上の女性と言葉を交わしている。
 「・・・・可愛い人ね。彼女?」
 「まあな」
 「宝条の人なら、さぞかしすごいお嬢様なんでしょうね。世界が違うわ」
 何となくその言い方にとげのようなものを感じながらも、綾は一応、
 「若狭綾です」
 と挨拶をした。
 「藤代由理です。じゃあまたね、優」
 「ああ、じゃあな」
 振り向きもせず、後ろ手でバイバイをする鳩羽だったが、由理はなんともいえない寂しい表情をしていた。
 それに気付いているのは綾だけだった。

 何事もなかったようにデザートを食べ始める鳩羽に、
 「今の人・・・・どんな知り合いなの・・・・?」
 ためらいがちに綾は尋ねた。
 「・・・・中学の先輩だよ」
 「先輩なのに、呼び捨てにするの?」
 言ってから、綾はすぐに後悔したが、もう遅かった。
 「何だよ。やきもちやいてるのか?」
 鳩羽がちょっぴり意地悪な笑いを浮かべる。
 「ちが・・・・」
 「違わないだろ」
 「・・・・・・」
 赤面して俯く綾に向かって、鳩羽はにやにやしながらもあっさりと言った。
 「お前が気にするようなことは何もないよ」
 「・・・・・・」
 どう答えていいのかわからず、綾は黙っていたが、
 「私、ちょっとお手洗いに行ってくる・・・・」
 そう言って、その場を離れた。


 ・・・・やっぱり私・・・・鳩羽くんとあの人のことが気になっちゃう・・・・嫉妬してるのかな・・・・。
 ふうっとため息をついて、髪を梳かしていると、ドアが開き、鏡に由理の姿が映った。

 どきっとして振り返ると、由理が声をかけてきた。
 「綾さん、だっけ?」
 「・・・・ええ」
 「優と一緒に旅行に来たの? お嬢様のくせに大胆じゃない」
 「・・・・・・」
 あけすけな言い方に綾が黙っていると、
 「聞いたかもしれないけど、あたしたち同じ中学の仲間だったの」
 「・・・・そうですか」
 「優が二年のときあたしたち付き合いだしたの。あたしはもう高校行ってたけど、優ほどかっこいい子もいなかったしね」
 綾は答えようがなく黙っていると、由理はからかうように続けた。
 「二つも年下なのに、女の扱いがうまくて夢中になったわ。冷たくしたり、優しくしたりね・・・・」
 綾は、過去のこととはいえやはり二人が付き合っていたのだということに、思った以上のショックを受けていた。
 「あなたって世間知らずみたいだから教えてあげるけど、優ってすごい悪い奴よ。中学のときから数え切れないほどの女と寝て、飽きたらすぐ捨てるんだから」
 「・・・・そんな」
 「まあ、そんなことも優にとっては他愛無い過去のひとつに過ぎないんでしょうけど。せいぜいあたしみたいに捨てられないようにね」
 由理の言葉は、鋭い針のように綾の心を刺した。

 もう次の言葉を聞くのは辛すぎた。
 トイレのドアを開け、店の外へ走り抜ける。
 残された由理の表情は虚しげで、決して勝ち誇ってはいなかった・・・・。

 綾が顔を押さえて店の外へ飛び出していくのに気付き、鳩羽は急いで会計を済ませ、後を追いかけた。
 「綾っ」
 涙に濡れた瞳が振り返る。
 鳩羽は強く綾の腕を掴んだ。
 「どうしたんだよ。由理になんか言われたのか?」
 うつむいて鳩羽の腕から逃れようとする。
 「・・・・聞きたくなかった。昔のことなんて・・・・。あなたのこともっと知りたかったけど、知らなければ良かった・・・・」
 「何言われたんだよ。言わなきゃわからないだろ」
 「・・・・」

 「・・・・あなたが、何人もの女の人を飽きたらすぐ捨てて、自分も捨てられたって・・・・」
 綾が重い口を開いたのは、しばらく経ってからだった。
 「何?」
 鳩羽は表情を曇らせた。
 「あいつ、そんなこと言ったのか・・・・」

 二人は浜辺に腰を下ろした。
 綾の泣き腫らした瞼に触れながら、鳩羽はポツリポツリと話し始めた。
 「確かにおれはいろんな女と付き合ったよ。体だけの関係なんてしょっちゅうで、もうめちゃくちゃだった」
 綾の胸に鈍い痛みが走る。

 「荒んでたからな、あの頃。親父のやってた会社が倒産して、あっという間に借金がふくらんで、結局親父は首を吊った。みんな手のひらを返したように俺たち一家に冷たくなったよ」
 「・・・・・・」
 「それから悪い奴らとつるむようになって、面白いように女が寄ってきた。特に由理は先輩だったけど、本気で俺を好きだといって、付き合い始めた。・・・・でも、結局俺の方が本気になれなかった。どの女に対してもな」

 考え込む綾に、鳩羽は続けた。
 「俺にとっては過去のことなんてどうでもいいんだ。綾・・・・今の俺を見ろ。俺だけを見るんだ」
 「鳩羽くん・・・・」
 「お前を抱いたのは気まぐれなんかじゃない。手が届かなくて、でもどうしても手に入れたくて、お前しか見えなかったんだ」

 鳩羽の胸が、苦しいほどに綾を締め付ける。
 「お前が信じないなら、何度でも言ってやる。今までの俺の全部捨ててでも欲しかったんだ。愛してる」
 「・・・・!」
 抱きすくめられた腕の中で、綾の瞳から涙がこぼれた。
 疑いや焦り、悲しみの涙ではなく、ただ無上の喜びを感じて・・・・。
 「泣くな、綾」
 綾の涙を唇で掬い取って、そして二人の唇と唇が深く重なり合った。

 抱きしめられた肩も腕も背中も腰も痛いほどに熱くなっていく。
 鳩羽は綾を抱きかかえて、歩き始めた。

 「どこへ行くの?」
 半ば朦朧とした綾が尋ねる。
 「今お前を抱かないで、いつ抱くんだよ」
 綾ももう拒みはしなかった。
 「私もあなたが欲しい・・・・」
 「綾・・・・」
 何度も何度も綾の名前を囁きながら、二人は溶け合っていった。




(春雷・終わり)




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