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カーテンの隙間からこぼれた朝の光が、室内を薄く照らしていた。
揚羽はいつもより少し遅い時間に目覚めた。
ぼんやりと目を開いた瞬間、自分が紫の腕の中にいることに気付き、驚いて起き上がる。
「あ....」
身体のあちこちがけだるいような気がする。
胸が徐々に鼓動を早めていった。
.....昨夜、私、叔父さんと......。
紫の大きな胸の中で溶かされていった記憶が蘇る。
紫が直木賞を受賞したにもかかわらず苦い表情をしたこと......。
そしてその後に再び荒々しく抱きしめられたこと......。
いろいろなことが重なった昨夜の出来事を、揚羽はひとつひとつかみしめた。
ベッドの横で寝息を立てる紫の顔を見つめながら、揚羽は自分たちが越えてしまった、もう戻ることのできない場所を両親の笑顔とともに胸に刻み込んだ。
不意にアラームが鳴った。
7時にセットしてあったようだ。
眉をしかめながら、紫は腕を伸ばして鳴り響く音を止めた。
まだ眠そうに頭を振る。
自分を見つめる瞳に気付いた紫は、夏用の薄い羽根布団の中に身を縮こませた揚羽をそっと抱きしめた。
「起きてたのか」
「うん......」
紫の腕の中で揚羽は目を閉じた。
夢ではないその力強さに、溢れるような安らぎがしみわたっていく。
「揚羽、おまえ学校はあと何日ある?」
突然、紫が口を開いた。
「....えっと、明後日が終業式だから3日だけど.....」
とまどいながら返事をする揚羽だったが、紫はその言葉を聞いて何か考え込んでいる様子だった。
「おまえがいちばん信頼できる友達は、この夏休みに何か予定が入ってるのか?」
紫がさらに唐突なことを言い出す。
「....あの、8月後半は家族で旅行に行くみたいだけど、前半は何もないって言ってたと思う」
「そうか。じゃおまえはもう今日から学校を休んで、このホテルに泊まっていろ。夏休みに入ったら、その友達を誘ってうちの別荘へ行くんだ」
「ええ!?」
急な話に、揚羽は面食らった。
一体紫は何故そんなことを言うのか......?
「学校休んで、それから別荘なんて、どういうこと?」
「..........」
揚羽の問いに紫は答えず、煙草に火をつけた。
ふうっと勢いよく煙を吐き出す。
「もう間もなく、俺の周囲が騒がしくなる。おまえもマスコミのさらし者になる可能性がないとはいえない....」
揚羽ははっとした。
紫が受賞した作品は、ベストセラーとなった「蝶の寝床」であるに違いない。
その内容はふたりの状況と違いはあるものの、禁断の愛を描いた作品である。
注目度の高い賞を受けたことにより、今まで隠されていた紫のプライバシーが暴かれ、作品のモデルが揚羽であることを突き止められたりすれば、どんな騒ぎになるかも知れなかった。
「賞の発表直後は世間の目も集まるが、しばらくすればほとぼりも冷める。別荘へは俺もすぐ後を追うから、2〜3人友達を連れて行ってくれ」
普段揚羽の帰宅が遅くなっただけでも機嫌を悪くする紫が、友達を連れてまで別荘へ行けと言うのは、よほど揚羽の身を案じてのことだと思う。
揚羽は、素直に頷いた。
「学校へはマサさんに連絡してもらうから安心しろ。それから、食事や必要なものがあったら全てオーダーできるように手配しておいたから」
そう言いながら、紫は出かける準備をはじめた。
「叔父さんは....家に帰るの?」
「ふたりでいるときは、名前にしろと言っただろ。まあ、しばらくはそう呼んでいた方が無難だがな.....」
紫はシャツに腕を通しながら、ベッドに近寄ってきた。
「本当はもういちどおまえを抱いてから出て行きたいところだが、やりかけの仕事もあるし、マサさん一人に雑用を背負わせることもできない.....。今からうちに戻るよ」
微笑んで、軽く揚羽の頬に口づけをする。
「じゃあ、また迎えに来る」
そう言い残して、紫は部屋を後にした。
揚羽は切なさと不安の入り混じった胸を抱えながら、シャワーを浴びに浴室へ向かった......。
◆◆◆◆◆◆◆◆
まだ早朝のせいか、閑静な住宅街は人影もまばらだった。
紫は車庫に車を入れ、玄関のドアを開けようとした。
すると、背後からいきなりシャッター音が聞こえた。
「直木賞受賞発表の翌日に朝帰りとは、どちらの美女とお過ごしですか?」
記者らしいその人物の下卑た物言いにむっとして振り返ると、そこにはどこか見覚えのある男が立っていた。
「....麻倉?」
「久しぶりだな、獅子堂」
眼鏡を外したその顔はどこかやつれていて、全体的にやさぐれ、崩れた感じは否めなかった。
「おまえ、こんなところで何してるんだ?」
紫の問いに、麻倉はふんと鼻をならした。
「見りゃわかるだろ。新直木賞作家・獅子堂紫のプライベートライフを追いかけるルポライターだよ」
「........」
黙り込む紫を尻目に、麻倉は続けた。
「大学のときからおまえの家には出入りしてるからな。大モテ人気作家のベールに隠された生活を暴いて、他社を出し抜こうってわけ」
悪びれもせず言い放つ麻倉に向かって、紫は怒りを顕わにした。
「....今更、なぜ俺の前に現れたんだ?」
「今更....だと?」
軽薄な態度を一変させ、麻倉は鋭い視線を紫に向けた。
「六年経った今でも、忘れることなどできやしない。あの日のことを....」
「........」
紫を忌々しげに見やり、麻倉は皮肉げに笑った。
「そんなことより、今度はおまえの大事な蝶々さんにご対面したいものだな」
「なに?」
揚羽のことを知っているらしい口ぶりに、紫の表情が険しくなる。
「決して隙をみせないおまえの、唯一の泣き所のようじゃないか。いじり甲斐があるってものだよ」
「....あいつには手を出すな。何かしたらおまえを決して許さない」
紫は麻倉の胸倉をつかんで、強い口調で言った。
「おいおい、こんなところ人に見られたらどうするんだよ。早々にスキャンダルか? それに自分から弱みを暴露するなんて、そこをつついて下さいって言ってるようなものじゃないか。相当イカレてるな、その禁断の恋とやらに」
「......!」
嘲笑うように挑発する麻倉を殴りつけそうになった紫は、マサが自分を呼ぶ声で一瞬我に帰った。
「紫さん、お帰りになってるんですか? どなたかいらっしゃるの?」
「ふん、すんでのところで暴力作家の汚名は免れたな。じゃあ、またな。必ずおまえを貶めてみせる」
そんな捨て台詞を残して、麻倉は身を翻した。
「あらあら、こんな朝早くからもう取材の記者さんたちがいらしてたんですか?」
マサののんびりした声が今の紫には苛立たしかった。
「あいつはただの記者なんかじゃない。スキャンダルが目的のハイエナですよ」
「ええっ!?」
長年この家のヘルパーとして勤めているマサだったが、紫が声を荒げるところなど殆ど見たことがないので、驚いてしまう。
「あら、でも今の人どこかで見たような......」
しばらく思案していたマサは、やっと思い出して大声をあげた。
「そうそう、紫さんの大学時代のお友達じゃないですか。すごく綺麗な女性と一緒に遊びにいらして.....。あら、でも今は一体なんの仕事をしてるのかしら......」
マサのつぶやきが終わらないうちに、紫は玄関のドアを開け、自室に引きこもった。
-----予想したとおり、いや予想以上に困った事態が起きてしまった。
麻倉はだいぶ以前から自分のことを調べていたようだ。
今回の受賞がきっかけなのかはわからないが、何の前触れもなく自分の目の前に現れて呪いのような言葉を吐き残していった....。
六年前のあの日のことを忘れられないという麻倉----。
自分に対する恨みと引き換えに、揚羽に何か仕掛けてくるつもりなのだろうか......。
揚羽....おまえだけは俺が守る。俺以外におまえを守ることなどできはしない......。
心の中で呟きながら、紫は拳で机を叩いた。
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