「響子.......」
 揚羽は、麻倉がまるですすり泣いているような気がした。

 麻倉は確かに錯乱していた。
 目の前の自分を、響子という女性と混同しているのだ。
 犯される恐怖のさなかでも、それだけはわかった。
 そして、麻倉がその女性を悲愴なまでに愛していることも.......。

 麻倉の薄い唇が、揚羽のうなじを這う。
 そして片方の手が乳房を揉みしだく。
 「あ......」
 恐れに強張った身体から力が抜けてゆく。
 心は麻倉を強固に拒絶しているにもかかわらず、身体は微かに反応をはじめた。
 情けなさと絶望に涙が溢れてくる。


 「やめて......ください.......。私は......響子さんていう人じゃ......ありません........」
 絞り出すように、揚羽はやっとの思いで声を出した。

 夢中で揚羽の身体を貪っていた麻倉は、弾かれたように顔を上げた。
 涙に濡れた揚羽の顔をまじまじと見つめ、頬に触れる。

 「おまえじゃないのか.......。おまえは.....もう、本当にいないのか......」
 目を閉じ、天を仰いで、苦しげに肩を震わせた麻倉は、静かに揚羽から身体を離した。

 揚羽は急いで、はだけた胸元を合わせた。
 ふと、麻倉の顔色のひどさに気付く。
 「あの......」
 揚羽はその先の言葉を飲み込んだ。

 麻倉は痩せた大柄な身体を折り曲げて、床に座り込んでいた。
 先ほどまでの濁った瞳が少しずつ元に戻っているような気がしたが、憔悴しきった表情は変わらなかった。

 どれほどの時間が経ったのか、しばらくして麻倉が口を開いた。
 「......勘違いして悪かったな........。薬の副作用で、ときどき幻覚を見てしまう.....」
 「薬.......?」
 怪訝な顔の揚羽を見て、麻倉はふっと笑った。
 「覚せい剤か何かかと思ってるんだろ? はずれだよ。こう見えても俺は病人でね。強い痛み止めが必要なんだ」
 「木村さん、重い病気....なんですか?」
 揚羽の口から出た自分の偽名に、再び苦笑いをする。

 「その名前は嘘だ。俺は麻倉という。獅子堂と同級生だったのは本当だがな。・・・・・・全く、自分を誘拐した男のことを心配そうな顔で見るもんじゃない」
 麻倉はいつしか、玄関先で会ったときのようなもとの優しい顔立ちに戻っていた。
 油断はできないが、揚羽の警戒心も少しづつ和らいでいった。


 「......叔父さんとは、どんな関係なんですか.....? どうしてこんなこと.......」 
 揚羽は思い切って、尋ねた。
 今なら、何かを話してくれるような気がしたのだ。

 だが、麻倉は一瞥をくれただけで、答えようとはしなかった。
 揚羽は再び、勇気をふりしぼった。
 「叔父さんに......何か恨みでもあるんですか?」

 麻倉がピクリと反応した。

 「恨み?」
 振り返った麻倉の目は、一転鋭いものに変わっていた。
 「......そうだな。結局は俺の逆恨みだ。あいつは何も悪いことはしちゃいない。あいつの罪は、ただそこに存在していることだけだ」

 「それは、どう......」
 最後まで言い終わらないうちに、麻倉は揚羽の口を手で塞いだ。
 「教えてやろうか。黙って聞けよ。愚かな男のくだらない昔話をな」

 憎しみにぎらついた瞳の奥に、悲しい光が宿っていた。
 揚羽は胸をつかれ、素直にコクリとうなずいた。


 「俺と獅子堂は同じ学部で、クラスやゼミも一緒だった。何となくウマが合って、友達になった。お互い裕福な家庭に育って、成績もそこそこで....。俺たちは同等で、いいライバルだと......ずっとそう思っていた。
 だがあいつが学内の文芸誌に発表した作品を読んだとき、愕然とした。
 かなわない、と......。
 今までに読んだどんなものよりも、魅きつけられ、目が離せなかった。
 作家志望だった俺は、かつてないほどの挫折感を味わった......。

 あるとき、獅子堂の作品を読んだ妹が俺たちの仲を知って、奴に会いたいと言った。
 めったに頼みごとをしない妹に懇願されて仕方なく引き合わせたとき、妹がひと目で獅子堂に惹かれたのがわかった......」

 「..........」
 麻倉の妹が紫のことを......。
 彼の容姿から察して、その妹もかなりの美しさなのだろう。
 過去の話とわかっていても、揚羽の胸はちくりと痛んだ。

 「獅子堂の表面的なところだけ見て群がる女たちと違って、妹は本気で獅子堂に傾いていった。
普段女には素っ気無い獅子堂も、妹には心を許し始めているように見えた。
 ......俺の妹は誰よりも綺麗で、心の優しい女だった。......それが響子だ」

 「........!」
 もう、これだけで半分以上は理由がわかった気がした。
 響子をめぐって、紫と麻倉の間に何かがあったのだろう。
 しかし、麻倉は実の妹をどんな想いで愛していたのか........。

 「響子は親父と愛人との間にできた娘でな。その母親が死んでうちに引き取られたから、いつも肩身の狭い思いをして小さくなっていた。そんな姿がいじらしくて、俺は異母兄妹とわかっていても、響子を一人の女として愛し始めてしまった」

 一瞬、自分と紫の関係が重なった。
 血を分けた者同士であっても、相手を狂おしく想う心がその垣根を越える。
 きっかけは同情や憐憫だったかもしれない。
 しかし禁じられた関係ゆえに、より想いが燃え上がるのもまた事実だった。

 「俺は焦っていた。はじめて敗北感を味わった相手に、この世で最も大事なものを奪われるような気がして......。
 俺は、響子の心が俺に無いのを知っていながら無理やりに犯した。あいつが拒めないことをわかっていながら......」

 麻倉の言葉が悲しげに響く。
 報われない苦しさに力任せに奪ったことで、麻倉自身も傷ついていたのがわかる。

 「響子はその夜家を飛び出して、獅子堂の家に向かった。俺はしばらく経ってから響子がいないことに気付いて後を追った。
そして、獅子堂の腕の中で安心しきったように眠る響子の姿を見た......」

 「..........」
 揚羽は何も言えずにいた。
 紫がその女性を包み込んでいたという事実よりも、麻倉の苦しげな告白が胸に刺さる。

 「俺は打ちのめされた。そんなことで、と人は笑うかもしれない。だが最愛の女が、俺が最も負けたくない男の腕の中で、たとえようもない安らぎを得ている。そのことが、嫉妬なんていう言葉では片付けられないほどの憎しみに変わっていった」

 「........」

 「獅子堂は冷たく言った。おまえには彼女を愛する資格が無い、と。彼女がどんな思いでここにきたのか、少しでもわかるのなら帰れ、と......。
 それを聞いて俺の中の血が逆流して、気付いたら獅子堂に刃をむけていた。
 そして俺のナイフは獅子堂ではなく、咄嗟に奴をかばった響子の胸に刺さっていた......」

 「.......それで......響子さんは......?」
 揚羽ははじめて口を開いた。
 圧倒されながら、しかし、気持ちを奮い立たせて......。

 「....死んだよ。愚かな兄貴に犯された挙句に、人をかばって刺されちまって......。でも、好きな男の胸の中で死ねた分だけ幸せだったかもな.......」
 麻倉が自虐的に言い放つ。
 
 「後始末は全部親父がやった。獅子堂の家で起きたこと何もかもを無かったことにして......。獅子堂も響子のことを考えて口を噤んでくれた。俺はその後、すぐに家を出た。この手で響子を殺してしまった絶望と獅子堂への憎しみを抱えて......。
 逆恨みだってことはわかってる。でも情けない俺は誰かのせいにしなければ生きてこれなかった。
 作家への夢も忘れて、三流紙のゴシップ記者になって、堕落した毎日を送っていた。
 そして、いつ死んでもおかしくないような病気になって、もう俺の人生もここまでかと思った矢先に馴染みの編集者から獅子堂の受賞の話を聞いた。
 空っぽでみじめな俺とは違い、獅子堂だけは光の中を歩いている......。
 そう思ったら、もうどうにも自分を抑えることができなかった。
 死ぬ前に、あいつを暗闇に引き摺り下ろしてやりたい欲求にかられた......。
 それが、今回のくだらない顛末だ......」

 「.........」
 揚羽は涙を流していた。

 「俺のために泣いているのか......? お人よしにも程がある......どうかしてるな、俺も。こんなにしゃべり過ぎてしまうとは......」
 麻倉は立ち上がり、揚羽の傍に近づいてきた。

 「俺に同情してもろくなことはないぜ。人の信頼を裏切ることなんて、散々やってきた。その証拠をみせてやろうか」
 そう言って、麻倉は揚羽の腕を取り、再び押し倒した。

 「麻倉さん......!やめて、助けて!」
 信じられない思いで、揚羽は叫んだ。
 豹変してしまった麻倉の強い力に、必死で抵抗する。

 すると、そこへ窓ガラスの割れる音がした。
 驚いて、ふたりが振り返る。

 「揚羽!」
 紫が窓を乗り越えて、向かってくる。
 麻倉の手が一瞬緩んだ隙に、揚羽は痛む足を抱えながら、後ずさりした。

 狼狽しながらも、冷静を装って麻倉が声を発した。
 「よく、見つけたな。ナイトの登場って訳か」
 紫は揚羽に駆け寄って、自分の薄いジャケットを羽織らせた。

 「話は外で聞かせてもらった。おまえは、本当に何もわかっていなかったんだな。響子の本当の気持ちも......人を憎む虚しさも......」
 「なに?」
 麻倉の眉根が険しくなる。
 構わず、紫はつづけた。

 「響子は、おまえのことを愛していた。血のつながった関係で、誰にも言えずに苦しんでいて......。俺はそんな苦しみを助けてやりたかった」
 「......そんな......でたらめを言うな」
 「今更嘘を言ってどうなる。響子はおまえを信じていた。孤独な居心地の悪い家の中で、おまえだけが響子を大切に扱った。
 だがその信頼を裏切られて無理やり奪われた響子は、絶望して俺に救いを求めてきた。ただそれだけだ」

 「........!!」
 麻倉は放心したようにテーブルに手をついた。
 柱時計が何十分もの時を刻んでいく。
 
 「......ふ.....おまえの言葉通りに受け取るなら、俺が勝手にひとりで空回りして、茶番を生み出したってわけか......」
 麻倉が自嘲気味に苦いため息をもらす。
 
 「俺は取り返しのつかないあやまちを........」
 言い終わらないうちに、麻倉の身体が床に倒れこんだ。
 真っ青な顔で、呼吸が異常なまでに荒くなる。

 「揚羽、救急車を呼ぶんだ!」
 紫の叫び声が、部屋に響き渡った........。




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