第二章
翌朝、清子が目覚めたとき、傍らに狼はいなかった。
もう仕事に出たようだ。
慌てて身支度をして外に出る。
「八重ちゃん、遅くなってごめんね」
洗濯をはじめている八重子が笑顔で振り返った。
「お姉ちゃん、体の具合、もういいの?」
「えっ?」
「兄ちゃんが、清子は疲れてるから休ませてやれって」
「....狼が....」
昨夜の情交の後、自分がどうなったのか、よく覚えてはいなかった。
痺れるように熱い高まりの中で、意識が途絶えていったのだ。
ため息をついて、紐状の跡のついた手首を見つめる。
背筋を甘やかな慄えが駆け抜けた。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
八重子の声にはっと我に帰る。
「朝ごはんにしようよ。一緒に食べようと思って待ってたんだ」
「ありがとう、八重ちゃん」
清子はこの幼く屈託の無い義妹に微笑んだ。
この数日、清子にとってはめまぐるしく日々が過ぎていった。
家を出て狼と結ばれて以来、全く環境の違うこの場所で暮らし始めた。
身の回りのことをほとんど召使に任せていた清子は、市井に住む人々の生活がいかなるものか、本当にはわかっていなかった。
けれども、命がけで狼を求め、何不自由ない生活を捨てた清子は、精一杯にこの場所を愛おしんだ。
何事にも慣れない一日を終えると、狼が時に優しく、時に猛るように激しく清子を抱く。
ただその時だけは、何もかもを忘れて、狼に身をゆだねるのだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
朝食を終え、八重子は洗濯のつづきを、清子は食器の後片付けにとりかかろうとした時、玄関の戸を叩く音がした。
「どなたですか?」
内側から尋ねる。
「清子お嬢様、じいです。ここをお開け下さい」
「....! じい....」
清子は後ろ手に戸を抑えて言った。
「お父様に言われてきたのね。でももう私は家には戻りません」
「お嬢様、お気を確かに....。いつまでこんな所にとどまっておられる気ですか」
「もう私は帰れないのよ。絶対に」
「........お嬢様、失礼致しますぞ」
じいやが、老人とは思えぬ強い力で、引き戸を開けてしまう。
「清子様.....たった半月でお痩せになって....。それにそんな粗末な着物を...」
「私は唯一人の人と出会ったのよ。お父様の言いなりに政略結婚なんてできないわ」
激しく口論する声を聞きつけた八重子が、玄関に向かって声をかけてきた。
「お姉ちゃん、誰かいるの? お客さん?」
「八重ちゃん、何でもないの。何でも......」
そう言いかけた清子は、その場にしゃがみ込み、突っ伏した。
ひどく気分が悪い。
遠くの方で清子を呼ぶ、じいと八重子の声が消えていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「権ちゃん、兄ちゃんを探して。お姉ちゃんが、お姉ちゃんが....」
八重子は、束の間仕事から戻ってきた隣人の権(ごん)の元に走り寄った。
「どうした、八重子。清子さんに何があったんだよ?」
八重子は苦しげに呼吸を繰り返した。
持病がぶり返したのだ。
「お姉ちゃんが急に倒れて、『じい』って呼んでる人に連れて行かれちゃったの。追いかけても、車だからどんどん遠くに行っちゃって....」
「何だって!? 家に連れ戻されたのか。よし兄貴は俺が探すからおまえは休んでろ。真っ青だぞ」
「平気....。早く兄ちゃんにお姉ちゃんのこと....」
「わかった。待ってろよ」
早足で飛び出してゆく権を見つめて、八重子はせり上がってくる苦痛に耐えながら、布団の上に横たわった。
・・・・こんなの平気・・・・。いつものことだもん・・・・。
徐々に上がっていく体温と体の寒さに震えながら、八重子はうわごとのようにつぶやいた。
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