第三章


 権から連絡を受け、家に戻ってきた狼は、ぐったりと寝床に伏している八重子を見つけ、駆け寄った。
 「八重子、苦しいのか?」
 「兄ちゃん、お姉ちゃんは....?」
 「大丈夫だ。必ず迎えに行く。それよりお前が....」
 うだるように熱い呼吸を繰り返す妹を放ってはおけず、狼は八重子を抱き上げて医者の家へ向かった。

 幸い、がめついが腕はいい町医者の青江が在宅しており、すぐに八重子を診せることができた。
 「如月さん、相当悪いな....。なぜもっと早く診せなかったのかね?」
 口惜しげに唇を噛む狼に、八重子は、
 「あたしは平気だから....お姉ちゃんを早く....」
 けなげに声を振り絞る妹の手をしっかりと握り締める。

 「....何やら事情がありそうだな。如月さん、今日のところはわしがこの子を預かってやろう。お代は高くつくがな」
 口は悪いが、ありがたい申し出に、
 「先生、申し訳ない。八重子を頼みます」
 いつもの狼らしくなく、殊勝な態度で会釈をする。

 清子と八重子....引き裂かれそうな思いで、狼は町医者の家を後にした。


 ◆◆◆◆◆◆◆◆


 狼はかつて仕事で二、三度近くに来たことのある清子の大邸宅の前に到着した。
 何度も呼び鈴を鳴らす。

 執事らしい男が現れて、門を開けた。
 てっきり門前払いを食らわされるだろうと、清子に会うためなら塀を乗り込えてでも侵入しようと思っていた狼は、拍子抜けした。

 「こちらでございます」
 延々と続く廊下を歩き、応接室へ通される。

 ・・・・狼の頭の中に、幼い頃の記憶が蘇る。
 ぶ厚く敷き詰められた絨毯、豪奢な照明、大理石の壁・・・・そして・・・・儚げに微笑む美しい母・・・・。

 頭を振って、開けられたドアの奥に入っていくと、清子の父・誠一郎が窓辺に向かって立っていた。
 「だんな様、如月様でございます」
 「うむ......」
 後ろを振り返り、革張りの椅子に腰を下ろす。
 「君も....掛けたまえ」
 狼は向かい側の椅子に座り、口を開いた。
 「清子を返してくれ。もう俺たちは夫婦の契りを交わしたんだ」
 誠一郎の眉根がピクリと動く。
 「清子は我が家の大事な一人娘だ。軽はずみなことを言うのは慎んでもらおう」
 「その大事な一人娘とやらを政略結婚させようとして、それがどうしても堪えられなくて、清子は家を出たんだろう!!」
 狼は思わず声を荒げた。
 「貴族なんて、結局そんなもんだ。欲や保身のためなら人の心なんて構いやしない....!」
 狼の鋭い視線に、誠一郎は一瞬たじろいだが、
 「清子には私がふさわしいと思う相手を選んでいるつもりだ。少なくとも君のように貧しく何の力も無い男とは違う」
 と言い返す。
 「何と言われようと、清子は返さない」
 互いに一歩も譲らず、緊張した空気が漂う。

 「・・・・君の事を調べさせてもらった」
 「何?」
 「誠一郎はテーブルの上にあった封筒から紙束を取り出した。
 
 「如月狼....二十一歳。明治三十七年東京生まれ。妹・八重子、十一歳。 職業、人力車夫....とまあ、ここまではありきたりな身上調査だ」
 狼の表情が次第に険しくなっていく。
 「母親、元芸者の弓香。十年前に出奔。そして父親は......」
 「もういい、やめてくれ」
 「いや、やめる必要は無い。君の父親は山脇隆之介伯爵、となっている。......つまり君は、山脇伯爵の妾腹ということだな....」
 「どうして、そんなことまで....」
 狼は苦々しく誠一郎を睨みつける。
 「私の力を侮ってもらっては困る。こんなことを調べるのは造作も無いことだ」
 「・・・・・・っ!」
 黙り込む狼に向かって、誠一郎は続けた。
 「さて、私がわからないのはそこだ。外腹とはいえ、男子である君がなぜそんな貧しい暮らしをしているのか....?」
 「そんなことを話す理由は無い。俺は清子を連れ戻しに来ただけだ」
 「そう言われて、私が素直に清子を差し出すとでも思っているのか。 それに、清子は今過労で伏せっている」
 「何だと....!?」
 狼は思わず立ち上がった。

 「君が清子に何をしてやれる? 病弱な妹を抱えた、その日暮らしの君に」
 「・・・・・・!」
 「とにかく娘には休息と栄養が必要だ。今の君にそんなものは用意できまい。わかったら、すぐにここを出て行け!」
 誠一郎が扉を指差して言い放つ。
 「・・・・・・それでも、俺は清子を離しはしない」
 「貴様、まだ言うか」

 そこに扉を開けて、清子が飛び込んできた。
 「狼....!」
 「清子!!」
 青ざめた表情で縋りつく清子を抱きしめる。
 「迎えに来てくれたのね」
 「清子、離れなさい」
 誠一郎が止めるのも構わず、ふたりは抱き合っていた。
 「お前は俺のものだ。絶対に誰にも渡さない」
 「狼....」
 狼の言葉に思わず涙がこぼれそうになる。

 清子は、テーブルの上のペーパーナイフに目を止めた。
 素早くそれを喉に押し当てる。
 「お父様、私をどうしてもこの家から出さないのなら、今ここで喉をかき切ります」
 「清子、ばかなことを言うな!!」
 「・・・・本気です」
 誠一郎は、言い出したら絶対に聞かない娘に気圧された。

 「・・・・じい! じいは何をしておるのだ」
 間髪を入れずに、じいやが部屋に入ってくる。
 「だんな様、申し訳ありません」
 「お前がついていながらどうしたことだ」
 清子が遮った。
 「じいは悪くありません。私が勝手に部屋の鍵を壊しただけです」
 喉元のペーパーナイフはそのままに、清子はじいやを庇う。
 じりじりと時間が過ぎていった。


 「・・・・今日のところは私の負けだ。じい、その二人を連れてゆけ」
 「お父様.....」
 「次こそは必ずお前をこの家に連れ戻す。絶対に、だ」

 じいに連れられて門の外に出た二人は、再び抱きしめあった。
 「清子、車に乗れ」
 狼は牽いてきた人力車に、清子を抱き上げて座らせた。
 やはり初めて清子を乗せたときよりも少し軽くなっている気がする....。
 「ありがとう」
 とにかく狼と一緒に戻ることができ、清子は安堵のため息を漏らした。
 車が走り出す。


 「狼....」
 「何だ」
 「さっき少し聞こえたんだけど、あなた本当は貴族の......?」
 最後まで言うことはできなかった。
 狼の背中がそれを拒絶しているような気がしたのだ。

 しばらくして、狼はポツリと呟いた。
 「そうだ。俺には半分貴族の血が流れている。忌々しいあの男の血がな....」
 それだけ言うと、狼は再び口を閉ざして、黙々と車を牽いた。
 清子は複雑な思いで、それを見つめていた。




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