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 二学期を終え、冬季休暇に入った男子寮内は静かだった。
 年末年始をまたぐこともあり、生徒たちのほとんどは、自宅に戻ったり、避寒地への途につくのだ。

 朱実の話によると、近々のうちに絹と穐は帰省するらしい。
 毎回長い休みには、従妹である綾も二人に同行し、そう離れていないそれぞれの実家に帰って行くとのことだった。
 綾が穐とともに若狭家の門をくぐり、親戚同士、正月を共に過ごすのだと思っただけで、嫉妬で胸が焼けそうに熱くなる....。

 出発の日、偶然鳩羽は正門近くで英家からの迎えの車に乗り込む綾たち三人の姿を見かけた。
 絹を後ろから見守るように付き従う穐は、それと同時にさりげなく綾の荷物を持ってやり、綾もそんな穐に笑顔で感謝の言葉をかける。
 それは単なる幼なじみのいとこ同士の、ありふれた光景かもしれなかった。
 だが穏やかに微笑む綾の横顔を目の当たりにした鳩羽は、思わず目を背けた。

 自分の入る隙間などない----。
 虚しさがこみ上げてくる。

 それと同時に、今まではあまり考えたこともない言葉が頭をよぎった。

 ”身分違い....”

 運転手や使用人らしき人物にかしずかれ、瀟洒な外車に乗り込む綾は、普段気軽に言葉を交わすクラスメートではなく、紛れもなく名門の姫と呼ぶにふさわしい雰囲気を醸し出していた。
 水商売で生計を立て、女手一つで自分たち兄弟を育ててくれた母を否定する気など毛頭ないが、自分と綾が今まで育ってきた環境の違いを改めて見せつけられたような気がした。

 このときはじめて、鳩羽の中に、一筋の危うい感情が芽生えた。
 針先ほどのかすかな劣情が頭をもたげ、それがじわじわと全身に広がっていくのを、まだ鳩羽は自覚できずにいた。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 鬱屈を抱えながら、翌日、鳩羽自身も東京の自宅に戻った。
 母は相変わらず昼間は就寝、夜には仕事に出かけるという生活で、わずかに言葉を交わすのみだったが、鳩羽の作った夕食を美味しそうに平らげて出掛けて行った。
 弟の良はちょうど受験期で、部屋にこもっていた。
 成績は兄ほどではないがそれなりに良いらしく、近くの都立高校を受けるとのことだった。

 久しぶりに帰宅した実家は学院とはまるで異世界で、鳩羽は微かに違和感のようなものを感じた。
 ある意味浮世離れした学院での生活に、少しばかり毒されてしまったのかもしれない。

 そんなことをぼんやり考えていたとき、リビングの電話が鳴った。
 中学時代の悪友からだった。
 皆も呼ぶから、出て来いよ、と誘われた鳩羽は、憂さ晴らしや懐かしさも相まって久しぶりに夜の盛り場に出向くことにした。

 「鳩羽、こっちだ」
 待ち合わせ場所の銅像の方から声が聞こえる。
 手を振る友達の近くには男女が数人。皆、かつての遊び仲間たちだった。



 「おまえ、お坊ちゃん学校なんか行って窮屈な生活送ってんだろー?」
 「でも、あんまり変わってないよね。タバコもお酒もやり放題だしぃ」
 なじみの店内に陣取ったメンバーは次々に鳩羽に声をかけ、笑い合った。
 久しく忘れていた、仲間たちと過ごす心地よい感触に、鳩羽の心はリラックスしていった。

 「....まあ、窮屈っちゃー窮屈だけど、学費もタダだし、しょうがねえよ。寮で同じ部屋のやつも....悪いやつじゃないしな」
 鳩羽はわざとぶっきらぼうに言った。
 朱実という親友ができたことを話すのも、何だか照れくさいような気がしたのだ。

 「女はどうなんだよ。今までのおまえなら女の方が寄ってきただろうけど、宝条のお嬢様なんかだと結構つきあいづらいんじゃねーの?」
 別の友達がからかうように言う。

 「......ああ、気取った女ばっかりで参るよ。誰かと付き合おうなんて気も起きやしねえ」
 タバコに火を付けながら、鳩羽は嘯いた。

 「じゃあ、おまえだいぶ溜まってんだろ」
 「うるせーよ、バカ」
 冗談交じりに悪友たちを羽交い絞めにしながら、鳩羽は心の中で苦笑した。

 かつては女をとっかえひっかえしていた鳩羽が、今では綾一筋に思いつめていることなど知る由もない友人たちは、鳩羽の色恋話が出ないのを意外に思っているようだったが、やがて話題は中学時代のことに移っていった。

 そんな中、少し離れた席から鳩羽を見つめる視線があった。
 ほんの数ヶ月だが鳩羽と関係をもち、別れた後はただの遊び仲間としてつかず離れずの間柄となっていた、同級生の美加だった。
 その潤んだような視線が自分に向けられていることに、やがて鳩羽は気付いたが、素知らぬふりをし、他の友達と同様に接した。
 
 たわいない思い出話に笑い、飲み、騒ぎ、鳩羽はほんの少しの間綾の事を忘れることができた。
 過去と現在であまりにも隔たってしまった自分自身を実感しながら......。




 閉店時間も間近になり、ほどよく酔いながら鳩羽は仲間たちと別れた。
 駅からの帰り道、いつの間にか途中まで同じ方向を歩くのは美加だけになっていた。

 ----何の未練も後腐れも持っていない過去の関係だった。
 だが、店内で見せたあの美加の眼差しは、まるで自分を忘れていないかのような、艶めかしいものだった。
 二人はしばらく黙りながら並んで歩いていたが、不意に美加がつぶやいた。

 「.....鳩羽は今、ほんとに付き合ってる人とかいないの?」
 「あー? 別にいねーけど.....」
 素っ気無く返事をした鳩羽の心の中に、一瞬魔が首をもたげた。

 「......おまえ、何でそんなこと気にするんだよ。さっきから俺を見る目もやけに色っぽいし。そんな顔してて、襲われても知らねーぞ」
 鳩羽は、美加の肩を掴みながら、意地悪く囁いた。

 「.....別に、やったっていいよ。......あたし、結構まだ鳩羽のこと好きだけど、どうせあんたまた遠いとこ行っちゃうし....」
 「..........!」
 事もなげに言い放つ美加に、鳩羽は胸を突かれた。

 もともと男女数人の仲間でつるんでいた中学のとき、告白してきたのは美加の方だった。
 数ヶ月の間、気まぐれのように美加を抱き、もう気持ちが覚めたからとあっさり言った鳩羽に、美加もあっさり身を引いた。
 その後はまた元のようにただの遊び仲間として過ごし、鳩羽は宝条学院に進学、美加は地元の高校に進み、今日の再会まで連絡を取ったこともない。
 鳩羽が美加と付き合う気になったのは、不良っぽい外見の中に一途な可愛らしさを見たからだったが、それが恋愛感情かと問われればそうではなかった。
 そしてそれは、悲しいほど美加にもわかっていたのだった。

 「........今夜だけまた前みたいなセックスフレンド、やってもいいよ....」
 「............」

 軽い口調で、さりげなさを装う美加だったが、鳩羽にはまだ美加が本当に自分を想っていること、そして鳩羽に拒絶されることを恐れている様子がひしひしと伝わってきた。
 ....届かない恋に苦しんでいるのは自分も同じだった。
 愁いを帯びたその瞳に自分の姿が重なり、心がぐらついていく。

 思わず鳩羽は救いを求めるように、傷を舐めあうように、美加の身体を抱き寄せ、目を閉じた。
 アルコールと香水の混じった甘い匂いが牡の欲望を刺激する。

 もう、どうでもいい.....。
 鳩羽は酔いの気分も相まって、自分がどこか深い闇の底に落ちていくような感覚に襲われた。

 ”いいじゃないか......自分を必死で求めてくれる女が腕の中にいるのだから....”

 茫漠とした心のまま、キスをしようと背中に廻していた手を離し、女の顔を見た。
 不安げに自分を見つめる、いじらしい視線......。

 当たり前だが、それは綾ではなかった。
 愛してもいない、過去の残影だった。

 急に鳩羽の中に苦いものがこみ上げてくる。
 どんなに自分を忘れずにいてくれても、応えてやれないことなどわかっているのに、自分はこの女に逃げようとしている....。
 冷静になった途端、激しい後悔の念が鳩羽を襲った。
 結局またこの女を傷つけてしまったのだ。
 鳩羽は、壁に手をつき、もう片方の手で美加の肩に触れた。
 
 「......悪い。俺、またおまえにひどいことするところだった......」
 「......? どうしてあやまるの?」

 美加は泣きそうな顔で笑いながら言った。
 「あたしが、また身体だけでいいって言ったんだよ」
 「美加......」

 「だって、鳩羽変わったもん.....。ぱっと見では気づかなくても、中学のときの鳩羽と全然違うもん。金持ち学校に行ったからだとかそういうんじゃなくて......うまく言えないけど、何かを思いつめてて、それを必死に抑えてるみたいで......」
 「........」


 綾........生まれ育った環境も、生きている世界も全く違う女......。宝条学院などという場違いな所に紛れ込まなければ一生会うこともなかっただろう。
 だが、自分はもう出会ってしまった....。
 今までの自分を根底から覆してしまうような....自信家で誰かを本気で恋うることなどなく、ただその日その日を何となく上手くやり過ごしてきた自分が、眩しい光に心を奪われ、何もかも変わってしまったのだ。


 「何となく思ったんだ。好きな人ができたんじゃないかって。でも、そしたらあたしが別れた後もずっと言えずにいた想いはどこに持っていけばいいんだろうって......」
 「......」

 「カラダだけでも、またつなげられたらなんか吹っ切れるような気がしたの。.....だから、あたしが勝手に言い出したことだから、鳩羽はあやまらなくてもいいんだよ」
 美加はもう涙を隠さなかった。
 鳩羽は黙って、その様子を見ていることしかできなかった。
 
 ここで美加を抱きしめれば、彼女の中でひとつの区切りがついたのかもしれない。
 だが鳩羽には、もうそうすることができなかった。
 結局自分の中には綾しか存在しないということに、再び気づいてしまったから......。
 今はただ、どんなに忘れたくても忘れることなどできないということが、嫌というほどわかってしまったから......。

 「.....俺、そいつといると、どんどん情けないヤツになっていくんだ。でも、どうしても止められない......。だから、おまえにはほんとに悪かった。ごめん......」

 美加はかぶりを振って、精一杯笑顔を見せようとした。
 「......今度会うときまでには、彼氏作っとくから......」
 「ああ」

 足早に。美加は走り去っていった。
 鳩羽は目を閉じ、その靴音が消えていくのを黙って聞いていた..........。





 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆





 憂愁の冬が過ぎ、鳩羽たちは新学年を迎えた。
 例年になく高等部から入学してくる生徒が多いのが、その年度の特徴でもあった。

 綾と離れたくないという鳩羽の執念が実ったというべきか、二人はまた同じクラス、同じ委員として席を並べることとなった。
 綾につり合うように、そして自らのプライドのために、鳩羽は高成績を維持し続け、常に学年三位以内の位置をキープしていた。
 そんな鳩羽を周囲も徐々に認めはじめ、友人も増えていった。
 心から信頼する友は朱実だけ、というのに変わりはなかったが、鳩羽はそれなりに楽しい学院生活を送るようになったのだった。

 「また一年、一緒ね。よろしく」
 綾が声をかける。

 「....ああ、よろしくな」
........否応無しに穐への慕情を見せつけられた日もあった。
 身体だけの交わりに逃げようとしたこともあった。
 だが、春の明るい光を背に受けて微笑む綾が傍にいることが嬉しかった。
 鳩羽の心の中の聖域に、綾は佇んでいた。


 一方綾は、茶道部の部長に就任した。
 生徒会役員の仕事も同時に抱えており、多忙でありつつも充実した毎日だった。
 穐との関係は相変わらずで、時々茶室に訪れる彼を丁重にもてなし、互いに穏やかな流れを保つ---激情とは無縁の、静かな親愛の想いを持ち続けていた。
 それはずっと続くものだと綾は信じていた。

 あの少女が穐の心を揺さぶることなど想像だにせずに.......。


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