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 ----父にとって、母はどういう存在だったのだろうか....。

 年若い美貌の妻。
 奔放で、大資産家の娘で、自分はその婿養子。
 夫婦でありながら、互いの時間はすれ違い、ともに声を上げて笑っている姿など見たこともない。
 二人の結婚はおそらく家同士の政略的なものだったのだろう。
 
 父の心の奥底まではわからない。
 ただ少なくとも父の方は母を大切にしていたように思う。
 自分は仕事に打ち込みながら、若狭家の名誉を必死で守ろうとし、そして時々眩しいものを見るように母を見つめた。

 ....けれども母の方は違っていた。
 父が傍にいても心はそこになく、まるで渇きの中で水を貪り飲むように、別の男性との火遊びに溺れていた。

 ----そんな二人の関係が切なかった。
 人の心など、何もかも思い通りにいきはしない。
 
 母が心から欲していたものは何だったのか。
 そして父は、そんな母をどんな思いで見つめていたのだろうか......?




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 「綾さん? お久しぶりね」
 数ヶ月ぶりに聞く母の声だった。
 正直なところ、今日は母の甘ったるい声を聞くのは、少々気分が重い。
 だが、平静を保って綾は返事をした。
 「....お母様。ご無沙汰してます。お元気ですか?」

 「ええ、私はいつも通りよ。....あなたは....少し声の調子がおかしいかしら? 元気にやっているの?......全くあなたときたら、春休みもさっさと寮に戻ってしまうし.....。心配しているのよ。これでも」
 「......ごめんなさい。でもこちらも皆変わりなく過ごしているので大丈夫よ」

 綾は母の意外な労いの言葉に驚いた。
 普段は家族のことなど殆ど顧みない母が、自分のことを案じてなのかわざわざ電話をかけてくるとは....。

 「今日はね、あなたにいろいろ荷物を送ったから連絡しておこうと思って」
 「....? そう、いつもありがとう」
 普段、宅配便のことなどはお手伝いの女性が連絡してくるのになぜ母が.....?と訝ったが、すぐに理由はわかった。

 「ふふふ、今回はとても美味しいお茶を入れておいたの。今、私の肖像画を描いてくださってる画家の高村先生から頂いた銘品よ。あなたも味わうといいわ」
 「そうなの.....。届いたら早速いただくことにするわ」

 ......おそらくその画家が母の新しい愛人なのだろう。
 母は昔から、恋人たちにプレゼントされたものをさりげなく綾に自慢するようなところがあった。
 当時は贈り物の出所など深く考えたこともない綾だったが、今ならすぐにピンとくる。

 「お父様は.....お元気なの?」
 半ばあきらめつつ、綾は尋ねた。

 「相変わらずお仕事三昧よ。今日もまた泊まりがけの視察らしいわ」
 母は気のない返事をした。
 受話器の向こうで、かさり、という音が聞こえる。

 「....? 誰か、そこにお客様でもいらっしゃるの?」
 「いやね、高村先生に決まってるじゃないの。絵の続きを描いてくださってるのよ」
 悪びれもせず、母はころころと笑いながら言う。

 「そう、じゃあ、お邪魔しても悪いからそろそろ切るわ」
 苦々しい気持ちを抑えながら、綾は返事をした。
 ......一刻も早く受話器を置きたかった。
 あの人は相変わらず父の留守中に愛人を引き込んでいる。
 絵のモデルなどと言って、一体どんな姿で画家と向き合っているのか、知れたものだった。
 
 「あ、そうそう、綾さん、くれぐれも無理はしないようにね」
 「......えっ?」
 「ふふ、何でもないわ。じゃあ、またね。夏休みには大事な茶会が控えているから、ちゃんと帰ってくるのよ」
 「......大事な茶会って」

 綾が問いただす間もなく、電話は切れてしまった。
 かと言って、こちらからかけ直すような気にもなれない。

 一体どういう意味だろう....。
 思わせぶりな母の言い方が気になる。
 綾にとって望ましいことではない....ただそんな予感だけはした。
 
 かすかな疲労感が残った。
 今日は朝から、悩み、揺れて、目に見えない何ものかに翻弄された一日だったのだ。

 だが電話室を出たところでばったり出会ったクラスメイトに声をかけられたときには、もう綾は学院の華としての顔に戻っているのだった---。




 ◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆




 「綾、重そうだな」
 陽射しの強い放課後だった。
 振り返ると、胴衣を着けたままの龝が立っている。
 部活の途中なのだろうか、額には汗が滲んでいた。

 ---母からの電話の翌々日、郵便室で実家からの荷物を受け取った綾は、新しい着物とともに同封されていたお茶の箱を茶室まで持っていこうとしていた。

 「これから茶道部か?」
 「ううん、今日は休みなんだけど、うちから届いたものを置きに行こうと思って.....」
 「そうか、じゃあ、途中まで一緒に行こう」
 そう言って、龝は綾の手から荷物を取り、歩き出した。
 「ありがとう」

 こうして龝と並んで歩くのは久しぶりだった。
 ほんの一年ほど前までは、二人はいとこ同士であると同時に、周囲からお似合いの恋人だと思われていた。
 たとえ龝がどんな女性と関係をもっていようと、綾は龝を慕い、いつか自分たちは結ばれるのだと信じていた。

 けれども今では互いに別の人間を好きになり、その相手だけを見つめている。
 自分の一方的な恋慕だったのだとは思うが、今穏やかな気持ちで龝の傍にいられるのが不思議だった。

 「....七葉が、おまえが元気がないようだと言っていたが、何かあったのか?」
 「えっ」
 焦ったように自分を見上げる綾に、龝は
 「ああ、別に何も詳しいことは聞いてない。ただ、この間鳩羽に保健室に連れられて行ったっていう話を耳にしたんでな」
 「やだ、そんなことも噂になるのかしら....」
 綾は苦笑いした。
 閉じられた学院の中、退屈しきった生徒たちの間では些細な話題がすぐに俎上に載る。
 ある意味目立つ存在である鳩羽、そして綾の行動は目につきやすいのだろう。

 「心配してもらって嬉しいけど、ほんとに大したことじゃないの。私がつまらないことにくよくよしてるだけで、体のほうは元気なのよ」
 綾は優しく微笑んだ。

 「綾、おまえは昔から自分の本心を抑えるようなところがあった......。気高い孤高の華のような存在だったおまえが、鳩羽と付き合うようになってから、素直に笑ったり泣きじゃくったりするようになって、俺は安心していたんだ。だが、あいつとは関係ない部分で解決できないようなことがあるんだったら、いつでも俺に相談しろ」

 「龝......」
 ......桃との出会いがそうさせたのだろうか。
 絹だけを守り、絹以外のものには心を閉ざしていた険しい表情の龝とは違う。
 あたたかい眼差しだった。
 ふっと肩の力が抜け、綾の口からは自然に言葉が出ていた。

 「......この間、久しぶりに母と電話で話したの。その日はちょっと別のことで悩んでいたことがあって、たまたま母との会話でそれを思い出して嫌な気分になったりしてね....。何だか意味わからないわよね。これじゃ」

 「叔母上か......。俺もしばらくは会ってないが、相変わらずのご様子なのか?」
 「ええ、全然変わってないわ....」
 ふふ、とあきらめたように二人は顔を見合わせた。

 「また新しい恋人を作って、自由気ままにやっているみたい....。このお茶もその人からいただいたものらしいの」
 そう言って綾は龝が運んでくれている荷物を指差した。

 「........」
 龝はしばらく黙っていたが、ふいに口を開いた。
 
 「おまえには今まで話したことがなかったが、叔母上も昔いろいろあったようだ......」
 「えっ?........」
 突然の言葉に綾は龝を見上げた。

 「......これは、以前に俺の父がひどく酔ったときにもらしたことだが、今のおまえになら話してもいいだろう」
 「........」

 龝はぽつりぽつりと話し始めた。
 「叔母上は、若いころ、本気でお館様を想っていたんだそうだ......。結婚することも望んでいたようだ。だが、お館様の方は叔母上のことを数ある「女友達」以上には思っていなかった。そしておまえも知っての通り、お館様は突然に奥様と結ばれた......」
 「........!」

 はじめて知る事実だった。
 このことが、母の淫奔な行動に関わりがあるのだろうか......。

 「それが叔母上の生き方にどう関係しているのか、俺には伺い知れん。だが、そんな過去もあったというのはおまえが知っていても無駄ではないだろう」
 「..........」

 綾は無言になった。
 母がかつて、一人の人を強く愛していたとは、考えたこともなかった。
 

 「荷物はこっちでいいのか?」
 龝に声をかけられ、はっとする。
 いつの間にか茶室のすぐそばまで来ていた。

 「あ、ありがとう、龝」
 「いや、俺も近くに用事があったからな」

 「........私、龝とこんな話ができるとは思ってなかった。七葉ちゃんに対してもそうだけど、以前より自分をさらけ出せるようになったっていうか......」
 「それでいいんだよ、綾。それが今までおまえに足りなかったところだ」
 綾に荷物を手渡しながら、龝は微笑んだ。
 
 「じゃあ、またな」
 龝は踵を返して、校舎に向かった。

 綾は畳の上に着物を置き、持ってきたお茶を戸棚にしまった。
 ぼんやりと着物を見つめながら、綾は考えた。

 ---父が傍にいても、いつも遠い目をしていた母。
 乱れ、大勢の男性に体を任せている母....。

 心が動揺していた。
 気を鎮めようと、先ほど持ってきた茶葉の封を開け、気に入りの碗を取り出す。
 香りを楽しむ余裕もなく性急に湯を沸かして、急須から碗に注いだ。
 一息に飲み干し、ため息をつく。



 ----しばらくして入れ違いに茶室にやってきた鳩羽は、入り口に綾の靴があるのに気付いた。
 襖の向こうに人の気配がする。
 綾が茶でも点てているのだろうか........そっと襖を開けた。


 鳩羽はその先の光景を見て、絶句した。
 「綾......?」




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